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茶会記にみる如春庵   

『 平成二十一年(2009年) 淡交増刊号 : 茶会記 : 森川如春庵の茶会記に見る道具組 』より

​                               著者  元名古屋市博物館学芸員 小川幹夫氏

                                     

森川如春庵という数寄者(1)

中京の麒麟児と謳われ、生涯茶の湯三昧を押し通した、後の如春庵(にょしゅんあん)、森川勘一郎は、明治二十年(一八八七)七月二十七日、旧尾張藩士小出秀満の長男、小出秀俊として生まれ、幼くして母親の実家苅安賀(かりやすか)(現愛知県一宮市)の森川家を継いだ。

「如春」は自身の茶室の庵号で、大徳寺住職澤庵和尚の墨蹟から付したという。
素封家(そほうか)、豪農の家の主として、何不自由のない境遇の中で、有り余る時間を趣味の茶の湯を極めることにひたすら費やした。
如春庵は、昭和五十五年に満九十二歳で亡くなるまで、終生働くことはなかったという。

しかし、如春庵がいくら裕福で茶の湯に造詣が深く、際だった目利きであったとしても、当時の名だたる茶人・数寄者たちから、「尾張にこの人あり」といわれるようになるには、己の望みを叶えさせる「強運」がなくてはならなかった。

 

森川如春庵という数寄者(2)

尾張の一茶人から、全国区の数寄者へと上り詰めてゆくために、如春庵は最善で最短の道を選んだようである。
まず生涯師とも慕った、当時の日本を代表する実業家であり、数寄者であり、美術収集家と知られた鈍翁(どんおう)益田孝(一八四八〜一九三八)に会いたいと願った。

鈍翁には大正二年(一九一三)の大師会(だいし)で初めてあったと如春庵は語っている。
如春庵二十六歳の時であり、嘉永元年生まれの鈍翁は三十九も年上の六十五歳。
実はその前年に某数寄者の家で遭遇していたはずであるが、鈍翁は覚えていなかったという。


 

森川如春庵という数寄者(3)

如春庵は十六歳の時に茶席で出会って魅入られた光悦作黒楽茶碗「時雨(しぐれ)」を養父に買ってもらい、十九歳で同じ光悦の赤楽「乙御前(おとごぜ)」を入手している。
如春庵をよく知る林家晴三氏は、如春庵が十代で二つの光悦茶碗を所持していたことが大きいと述懐(じゅっかい)される。
如春庵とはどんな若者かという話になったときには、若くしてこの二碗を手に入れていたという事実が、大いに役立ったに違いない。

如春庵の名が日本の茶人・数寄者に知られるようになったのは、大正八年(一九一九)十二月二十日に起こった一大事件からのことであった。
その日、鈍翁の品川御殿山碧雲台(ごてんやまへきうんだい)にあった応挙館(現在は東京国立博物館敷地内に移築されている)で行われた「佐竹本三十六歌仙絵巻」の切断に立ち合い、数十人の数寄者たちによるくじ引きで、巻頭の「柿本人麻呂像」を引き当てたのである。如春庵はこれ以外にはいらないと強く念じ、茶断ちまでしてくじに望んだという。

森川如春庵という数寄者(4)
大師会(1)

錚々(そうそう)たる数寄者の中に含まれただけでも大変な事であるが、「何故あの若者がここに⋯」とささやかれるなか、見事一番くじを引き当てたわけである。

しかも、如春庵は単に数寄者の一人としてくじに参加しただけではなかった。
絵巻切断に先立ち、その四日前に行われた各歌仙毎の断簡の値段を決める評価会の委員をも務めていたのである。

この強運と、鈍翁の如春庵に対する扱いぶりを目の当たりにした日本を代表する数寄者たちは、ただ者ではない尾張の若者を目に焼き付けたに違いない。


 



如春庵の茶人としての関東デビューは少し遅れてやってきた。
大正十二年(一九二三)四月二十一日・二十二日に横浜本牧三渓園(ほんもくさんけいえん)で六百人の会衆を集めて催された大師会(だいしかい)である。

高台な園内各所に十七の茶席が設けられ、鈍翁や根津青山(せいざん)のほか、大阪の道具商戸田露朝(ろちょう)、京都の服部萊々堂らが席主を努めたその会で、如春庵は第十二席蓮華院を受け持つことになった。


大師会(2)

その時使われた道具は、「西行法師の詠草」、「光悦好み鷹が峰大虚庵文字入釜」、「光悦作赤楽乙御前茶碗」、「宗拙共筒茶杓」、「宗旦在判黒折溜(おりため)(撓)棗」などであった。

茶席を訪れた高橋箒庵(一八六一〜一九三七)に「道具組は如春一代の傑作と謂(い)ふべく、而して(しか)斯く(かく)言はるべく予期した如春の鼻は、向山の三十の塔をも凌ぐばかりであった」(『大正茶道記』「三渓大師会」)と書かせるほど、如春庵の実力とそれに勝る自信はいやが上にも高まっていったのである。

 

敬和会・三傑会(1)

大正十二年九月一日、未曽有の大惨事が関東一円を襲った。
関東大震災である。
運良く生き延びた鈍翁が、その後およそ一年の間、名古屋に疎開したことが、如春庵をはじめとする名古屋の数寄者・茶人たちに与えた影響は計り知れない。

 

鈍翁を慰めようと中京の茶人たちが交代で茶会を開き、そのお礼にと鈍翁のほうが茶会を開いて答える。
相談事があっても茶会、もめ事があっても茶会、わずか一年ほどの間に、名古屋の茶の湯は一変したという。

敬和会・三傑会(2)


ちょうど同じ頃、名古屋の数寄者が集まって「敬和会(けいわ)」なる同窓の会が作られた。
当初のメンバーは如春庵のほか、豪商即是(そくぜ)高松定一、金物業・真愛岡谷惣助、半醒子糟谷徹三郎、鮑霜軒(ほうそうけん)山内茂樹の五人で、いずれも名古屋を代表する若手茶人であったという。

その多くを如春庵が自書したという敬和会の茶会記には、大正十一年(一九二二)十一月十日から大正十三年九月十七日までに行われた茶会51回の様子が克明に書き遺されている。
第一回敬和会茶会では如春庵が亭主を務めているが、続く翌年正月十四日に行われた茶会では、小田原で鈍翁が亭主を務めている。

敬和会・三傑会(3)

つまりは、鈍翁を迎えてのサークルだったのであろう。
実際、51回のうち、如春庵が亭主になったのが6回であるのに対して、鈍翁は10回で、会員の誰よりも多い。

もう一つ名古屋で始まった茶会「三傑会(さんけつ)」にも、如春庵は顔を出している。
「三傑会」は、昭和十一年、当時先行していた東京の「大師会」、京都の「光悦会」に対抗すべく、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑とその時代の文化を偲ぶという大義の下に、徳川義親(よしちか)(尾州徳川家第十九代当主)を発起人として結成された。

如春庵は、昭和十一年から同十七年の間につごう7回開催された茶会のうち、昭和十二年と同十四年の茶会で席主を務めている。

 

茶会記の道具たち(1)

 

生涯に何千回も茶会を開いたといわれる如春庵であれば、それこそ膨大な量の茶会記があってもおかしくはない。
数多くあったであろう茶会記の中で今に遺る「敬和会」と「三傑会」の茶会記を取り上げ、その茶会に使われた道具の一端を見ることとする。

茶会記に書かれている道具の取り合わせを現存する茶道具で完璧に再現することができれば、茶をたしなまぬ者にとっても、まことに興味の尽きないことではあるが、それはなかなか難しい話であろう。

 

茶会記の道具たち(2)
 

茶会記のわずかな情報量で、その時に使われた茶道具と現存する道具とをすべて固定することは不可能に違いない。
ただ、何点か「これは」と思われる道具が現存している。

それはただ遺されているだけではなく、遺されるには残される理由があったわけで、それこそ鈍翁やそれを取り巻く如春庵はじめ尾張の茶人・数寄者たちとのエピソードがふんだんに語り継がれ、それが故にこそ長く今日まで伝えられてきたのである。

 

〈敬和会 第一回茶会〉(1)

 

大正十一年十一月十日
敬和会の第一回は、亭主森川如春庵が正客に岡谷真愛(惣助)を招いて開かれた。
このときに使われた道具のうち、現在その所在が明らかなものは、「羽 鶴 益田鈍翁より到来」とある羽箒と、「花入 鈍翁尺八 銘朝きり」とある尺八花入である。

「羽箒 鶴」は、飼っていたのであろうか、益田鈍翁が自邸の庭にいた鶴之羽根を使って自ら作った羽箒であり、大正十一年に如春庵の元に届いている。

何月に届いたかはわからないが、鈍翁より送られたものを、早速使ったものと思われる。

 

〈敬和会 第一回茶会〉(2)
 

竹尺八花入、銘「朝霧」は、如春庵にとってまさに忘れがたい記念の花入であった。

鈍翁と如春庵の箱書、附属する鈍翁書簡(大正九年十二月二十四日消印)から、この花入は如春庵が「柿本人麻呂像」を引き当てた時のくじ引きに要いた竹筒と同じ竹を使って鈍翁が作り、一年後に記念として如春庵に送ったものであることがわかる。

銘は、「柿本人麻呂像」にある「ほのぼのと あかしの浦の あさぎりに 島がくれゆく 舟をしぞおもう」の歌からとられた。
 

〈敬和会 第一回茶会〉(3)

 

如春庵は、この「柿本人麿像」を引き当てたことが本当に嬉しかったのであろう。

己の強運に驚いていたのかもしれない。

この花入の箱の中に、まだその手に感触が残っている一番くじの抽選棒を収め、生涯手放すことがなかった。

今もその先端には「一」の文字が鮮明に刻まれているのを見ることができる。

 

〈敬和会 第四回 / 六回茶会〉(1)

正十二年二月二十七日 / 五月二日
第四回茶会では、亭主森川如春庵が正客に富田重助を迎え、その時も「茶碗 光悦赤乙御前」を使っている。

しかし、如春庵が二つ所持していた光悦茶碗のうち、最後まで手元に置いて慈(いつくし)んだのは、この「乙御前」ではなく黒楽茶碗「時雨」の方であった。
如春庵自ら手造りした「時雨」写しの茶碗がいくつも知られており、如春庵がいかにこの「時雨」を愛し、執着していたかが知られている。

大正十二年四月、関東デビューの茶席で季節柄、「時雨」を使えなかったのはさぞや無念であったに違いない。


〈敬和会 第四回 / 六回茶会〉(2)

 

同じ大正十二年五月二日、第六回敬和会の茶会記に「茶碗 如春庵作光悦写黒 三渓園大師会ニよういられし数之内」とあり、如春庵が大師会で使ったと思われる「時雨」写しの数茶碗を、亭主を努めた岡谷真愛が借りて使ったことが知られる。

大師会の席で主茶碗に「時雨」を使えなかった如春庵が、数茶碗として使うために、「はつしぐれ」など手造りの「時雨」写しを多数揃えていた様子が想像される。

 

〈三傑会 第二回茶会〉

昭和十二年四月十六・十七日
一方の「三傑会」にも、茶会に使われた道具の中に、これはと特定できるものが色々含まれている。

昭和十二年四月十六・十七日の茶会では、本席の床に「石山切 伊勢集 しほのやま」を掛け、花入に「古銅管耳付 徳川家伝来」、茶碗に「光悦茶碗乙御前」などを用いて、堂々たる道具組をしている。

「灰器 如春庵庭焼」も興味深い。如春庵が焼いた灰器は複数知られるが、中には丸い底部を顔に見立てた笑顏が箆書きされたものもあり、一見地味な灰器にも如春庵らしい遊び心を見ることができる。

​            この項、書きかけです。
著者の小川幹夫先生、淡交社様のご協力のもとに掲載させていただきました。
文中の写真とその掲載ページにつきましては省略させていただいております。
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